玄関の扉を閉めた瞬間、ずるりとその場にへたり込む。震える唇は君のぬくもりを感じたまま、ふいに聞こえてきた君の言葉に、ぽろりと零れ落ちたのは、涙。
ねぇ。これでも、さ。僕は、僕なりに、君のことを愛していたんだよ。
きっと君は、そんなことはないと否定するのだろうけど。
フレイが、僕とアスランの仲を疑っていることに薄々気がついてはいた。そのくせ曖昧にすることしか出来ず、彼女の不安を取り除いてあげられなかった僕が悪い。そんなこと、わかっている。
でも、僕にはどうしても彼女が望むまま彼との繋がりを、連絡を、絶つことなんて出来なかった。それを、弱さ、と言われるのならば、そうなのだろう。
幼い頃、僕とアスランは兄弟のようにいつも一緒で、確かにアスランが全てだったんだ。長い間離れ、敵対したこともあったけれど、やっぱり今も大切なことに変わりはない。これからもきっと、変わることなどない。
けれど、変わったこともある。変わらざるを得なかったとでも言うべきか。君への想いが時間と共に強くなるにしたがって、彼に抱いていた想いは淡くなり、違う形でこの胸に残ったんだ。そう、今なら、はっきりと言うことが出来るのに、な。
なぜ、もっと早く。こうなる前に言えなかったのだろう。
今更、僕に何が言える。君にそんな言葉を言わせておいて、どんな表情して言えばいい、と?
本当のことをいえば、出て行きたくなんてなかった。傍にいたのは、君のためなんかじゃない、自分のためだ。守らなきゃいけないなんて、思うだけで、実際に守られていたのは、いつだって僕の方だ!
ねえ、だからこそ。幸せにしたい、と思ってた。僕だけじゃなく、今度こそ二人で幸せになりたいと思っていた。そうして命が尽きるその日まで、ずっと一緒にいたい と――願って、いた。
嘘なんかじゃない。本当に、そう思っていたんだ。
だけどそれは、永劫叶わない夢だと、知った。僕に自由になっていいと口にする彼女こそが自由になるべきなんだと、わかってしまったから。
いってらっしゃい、と口にする彼女の笑顔を、しっかりと焼き付ける。
「……行って、きます」
もう二度と言えないであろう言葉を震える声で口にして、もう二度と言えないであろう、ただいま、という言葉が脳裏を掠めた。
ああ、これが最後なのだ。と、実感のないまま、ふらりと足を踏み出す。
今まで照れと恥ずかしさから、彼女にせがまれなければしていなかった、行ってきますのキスを、今日だけは自分の意志で、自分からした。
甘く、けれどどこか痛みを伴うそれに、涙がでそうになりながらも、僕は出来うる限りの微笑を浮かべて、玄関の扉をくぐった。
そうして全てを、受け入れた気でいたのに。
こ ん な の っ て 、 あ ん ま り だ
扉を閉めた後、なかなかその場から動けずにいた僕の鼓膜を、震わせる小さな声。ドア越しに、聞こえてきた告白。視界が歪み、ぽろり、と熱があふれ出す。
フレイ。
君の名を呼ぼうとするのに声にはならず、ただ空気を振るわせるだけ。今、声を大にして叫べば、と。そんなことを思いながら……僕は、口を閉ざすことしか出来なかった。
どれくらいそうしていただろうか。
長い長い時間に感じたけれど、きっと実際そんなに経ってはいないのだろう。ずっと此処にいられるはずもなく、重い身体をどうにか動かすと彼女から手渡された黒いバッグを持ち直す。中身は確認していないけれど、すぐに分かった。彼女と暮らしていたこの部屋にあった、僕の持ち物全てだということは。
もっとも、彼女の表情を見て分かってしまった、と言った方が正しいかもしれないが。
我ながら、少ない私物だなぁと思う。小さくはないけれど、持てないほど大きくもないこのバッグに、全てが収まってしまうのだから。
震える足に叱咤して、ゆっくりと立ち上がる。ずしり、と手にかかる重みに少しだけよろめきながら、ちら、と玄関の扉を見た。細い針が胸を刺すような、そんな痛みを感じて身体ごと向き直る。
見慣れた、でも、もう二度とくぐることはないだろうそれを、しっかりと目に焼き付けて。
「……行って、くるよ」
もう一度小さく、自分の耳にかろうじて届くほど小さく呟いて、くしゃり、と歪みそうになる顔にどうにか笑みを貼り付けた。誰も見てないのに意味はないとは思うけど、最後ぐらい……笑っていたかった。
たとえそれが、心からの笑顔じゃないとしても。
くるり、と今度こそ扉に背を向けて、まっすぐ前を見つめる。
もう、後ろは振り向かない。フレイも、必死で前へ進もうとしている筈だから。だから僕も、もう後ろは振り向かない。
それは誓いというよりは、願いに似ていたけれど――。
ふと、気づけばこの世で、独りきりのようだった。
人通りも多く、ざわめきはうるさいぐらいだったのに。何故か。本当になぜか、僕だけが取り残されたような、そんな 錯覚。ぼんやりとした頭でここは何処だろうか、と考えたその時、突然電子音が鳴り響いた。自分のズボンのポケットから、鳴り響くそれ。
(あぁ、もしかしなくても……)
ぼんやり音の発信源である携帯電話を取り出し、通話ボタンを押すと耳元に押し当てた。
『もしもし、キラ?』
聞こえてきた心地よい声にやっぱりと思いながら、すっと目を閉じ、うん、と答える。さっきまでの異様な感覚が、彼の声を聴いた途端、さぁ、と消えてゆくのを感じた。胸にあたたかいものが広がってゆく。
絶えず動かしていた足を止め、人の邪魔にならないよう近くにあった店の壁まで移動すると、静かに背中をくっつけた。
『どうしたんだ? もう約束の時間過ぎてるぞ』
「うん、ごめんね」
『いや、別にいいんだ。何かあったのかと思っただけだから』
とても。とても優しい、声が、する。
微笑を浮かべている、ということが声だけで分かるほど心に染み渡る、暖かな声が、優しく鼓膜を震わせる。あぁ、なんだか……また、泣いてしまいそうだ。
『キラ?』
「……ん?」
『どうした? 何か、あったのか?』
なんでもない、と反射的に口にしようとするけど、何故か声が出なかった。変わりに、きゅ、と唇を噛んで、鼻から肺いっぱいに息を吸い込む。
……すぐに、気づいてしまうんだね。君は。いつもは、こっちが困ってしまうぐらい鈍いくせに、どうしてこういう時ばかり鋭いの? なぜ? と、問いただしてしまいたいぐらい。
(――あぁ、本当に、どうして、なのだろう)
「アスラン、」
出来るだけ普通に名前を呼ぶ。もっとも、彼にどう聞こえているかは、わからなかったけど。
『なんだ?』
僕の心配をよそに変わらず優しい声が返ってきて内心、ほっとする。
いや、もしかしたら、気を遣ってくれているのかもしれない。僕の気持ちを汲んで、なんでもない風に問いかけてくれている。……きっと、そうだ。
本当に、僕はいつも君に救われているんだね。こうしている、今も。
なのに、
「ごめん、ね」
『……キラ?』
ごめん。アスラン。本当に、ごめん。僕は今、とても酷いことをしようとしている。いつもいつも、一方的に大切なモノをもらうばかりで、何ひとつ返せない、ままで。僕は。
――君の、優しく差し伸べてくれた手を、ふりはらう。
謝っても、謝っても……謝り、きれないよ。
ドサリ、と持っていたバッグが地面に落ちる。今までバッグを持っていた手が、ひりひりと痛んだ。
『キラ』
何も言わない僕に焦れてか、もう一度強く名前を呼ばれる。切実なものが含まれていると思うのは、僕の錯覚なのだろうか。いや、きっと錯覚なんかじゃない。だって、こんなにも、胸が痛い。
キラ、と電話越しに伝わってくる声に耳をすませ、空を、見上げた。透き通るように、真っ青な空。今の僕の心には、とても似つかわしくないその色。
ねぇ。今この空は、君にも見えているのかなあ?
「ごめんね、アスラン。今日、行けそうにないや」
すまなそうに、けれど、出来るだけ深刻にならないようにそう告げる。電話の向こう側。少しだけ息を呑む気配がしたけど、僕は気づかないフリをした。
『そう、か。何か用事でも出来たのか?』
分かりやすく上ずった声。でもそれを押し隠そうとしていることが分かるから、居た堪れない。今、君は、どんな気持ちで僕と話しているのだろう。そんなもの、想像すら、出来ないけれど。
「うん。ちょっとこれからやることがあって」
新しい家も探さなきゃいけないし。とは、勿論言えるわけがなかったが。
『……そう。なら、仕方ないな』
どこか、ほっとしたような声色に、ずきり、と胸が痛んだ。
「ごめんね、アスラン。約束、守れなくて」
『いや、いいよ気にするな』
「ほんとに、本当に、ごめん」
『キラ?』
こめられたこの想いに、君はいつ気がつくのだろう。一生、気づかないままでいてほしいとも、思うけれど。きっと、それは、無理だろうから。
今、電話越しに終わらせてしまう僕を……どうか、許して。
「ありがとう、アスラン…………さよなら」
『キ、』
――プツリ。
彼の声を聞く前に通話を切り、そのまま電源をおとした。
耳に、残る、声。カタ、と唇が震えている。
さ よ な ら。
なんて……言葉だろう。
確かに自分の声だったはずなのに、舌の上を離れた言葉は自分のものじゃないみたいで。いいようのない気持ちが、奥底から湧き上がってくる。それがとても苦しくて、切なくて、堪らなく て。
目を細めて、ははっ、と誤魔化すように、わらった。
「……簡単、じゃないか」
心では簡単にはいかなかったのに、やってみればこんなにもあっけない。
フレイといた時は、あんなにも躊躇っていたというのに。彼との繋がりを絶つことなど出来ないなんて、そんなのただ決め付けていただけじゃないか。
でも、彼女との繋がりを失ってしまった今、彼の元へいくことはどうしても憚られた。
何故、なんて。そんなもの考えるまでもない。
じんわりと何か苦いものが口の中に広がって、くしゃり、と顔を顰めると、そのまま後ろの壁に頭をあずけた。僅かに開いた唇から漏れそうになる名を必死で押し込め、痛いぐらいに目を閉じる。
まずは、この携帯を解約しようか。もう、これは必要ない。必要としてはいけない。それから家も借りなきゃいけないな。それから。それから。二人に知られることのないように、うまく、やって……。
……あぁ、違う。
一人でいいんだ。一人、で。フレイが、僕を探すことなんて、ありはしないのだから。
ずきり、と痛んだ胸に、力なく笑みを零す。こんなんじゃ、駄目、なのに。この痛みは一体何に対してだろうかと、分かりきったことを考えながら、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。
君たちの手を離してしまった僕に、もう戻れる場所などない。
ならば、前に進むだけだ。今まで二人に甘えていた分、今度は一人で。
大丈夫。一人で歩いてゆく勇気を、ちゃんともらったから。
『いってらっしゃい』
ただいま、ということも。おかえり、と迎えてもらうことも。もう、出来ないけれど。
笑顔で、送り出してくれた君のためにも、僕は――。
パンッ、と両頬を叩いて、情けない顔を引き締める。
「よし」
小さくも力強く声を出すと落としていたバッグを拾い、ぎゅう、と力強く握りしめた。
くじけてしまうかもしれない。
君のぬくもりが、恋しくて仕方なくなる日がくるのかもしれない。
でも、それでも今。ここから、自分の足で歩いてゆくから。
もたれていた壁からそっと身体を離し、目に痛いぐらい真っ青な空をそっと仰いだ。
離れていても、きっとこの空が僕たちを繋いでくれている。
だから、
「いつかまた、」
きっとこないであろう。
でも、もしかしたら、くるかもしれないその日に想いを馳せて。
口元に微笑を浮かべると、そのまま人の波へとまぎれていった。
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